【ESSAY #3】「コミュニケーション」の本質とは?

(※以下、出産前の2016年6月ドイツにいた頃に書いたものです。)


 7月2日は、コロンビア人のKの結婚式。
こちらでできた初めての友達で、親友と呼べる子だ。
 
彼女の結婚式前に、非ドイツ出身の女友達4人で、「バチェロレッテ・パーティー(同性だけで祝う独身最後のパーティー)」を、企画することになった。
 
 幹事は、コロンビア出身のD。
メンバー4人で、早速チャットで準備の相談が始まった。
彼女のリードで日時・場所・サプライズ等を
決めていきたいのだが、これが、上手く進まない。
 
個々の伝達情報に、決定的な間違いはないのだが、何だかしっくりこない。
”気持ちのいいコミュニケーション”という
感じがしないのだ。
 
  なんだろう。この感じ。
最初は、英語ノンネイティブ同士の言語の問題だと思った。
私を含め、全員が全員と直接面識が無いという状況もあった。
 
でも、それだけじゃない。
 
その話はもう終わったのに…。
そんなことを、なぜ聞いてくるの?
元々自分からやるって言い出した役割なのに、何故まだやってないの?
 
日本の友達同志のコミュニケーションには無い、なぜ?というイライラ感がつもるばかり。
 
何だろう、この感じ!?
きっと、誰もがそう思っていたに違いない。
チャットのやり取りを、最初からもう一度見直してみた。
返信のタイミングや、質問意図を理解すること、発言の背景を汲んで、前に進めようとすること。
それらが、見事に少しずつずれている。
とはいえ、皆「新婦の彼女を喜ばせたい」という気持ちは同じ。
 
ビジネスならある程度、割り切れただろう。
でも、プライベート仲良しグループとなると、急に、自分の思いは暗黙で理解してくれて当然!
という気がしてくるから、恐ろしい。
 
そうだ、自分も含め、
「相手を受けとめる気持ち」が少しずつ欠けていたんだ。
 
皆、其々、国や育ってきたバックグラウンドは違う。
時間の感覚や物事の優先順位は、異なって当然のこと。
 
 例えば、ラテンアメリカ人と日本人。
勿論、個人のパーソナリティーにも拠るが、
プライベートの時間感覚や、発言への責任感の差は、驚くほど大きい。
 
今まで、直接の言動でうすうす気づいてはきたが、文字メッセージのやりとりを目のあたりにすると、価値観の違い、何よりそれに対して拒否反応を示す自分が、如実に現れた。
 
 恥ずかしながら、日本人である自分は、
誰よりも全体の調和を考え、
誰より思いやりをもって発言していたつもりだった。
 
(日本の)常識的には○×だけど、
ラテン系の彼らは、(全然違って)
××と考える節があるから、
それを配慮して▲▲と言っておこう、など。
 
 でも、気がついた。
それじゃだめなのだ。
最初から相手を自分の常識で図り、
その違いを、一旦突き放してしまっている。
 
心底で「本当は違うのにな。」
と思いつつ、納得できない、ジクジクした中で相手を思いやった”ふり”をしているだけなのだ。
”なんちゃっての思いやり”だから、
こんなにどんどん違和感が出てくるのだ。
 
 
まずは、自分の物差し(常識)を捨てること。
そして一旦、丸ごと相手を受け入れる。
日本の常識、自分の理想を一旦捨てて、
”なるほど!
ラテンアメリカンカルチャーってこうなのか。
新しいぞ。面白いぞ。”と取り込んでみる。
 
 それから、改めて「相手を思いやること」が重要なのだ。
その前の【自分をゼロにして、一旦全部受け入れる】、
このワンプロセスが必要だったんだな。
 
何だか、とてもしっくりくる自分がいた。
 
 特に、”おもてなし”文化で育った日本人は、
後者の「思いやること」は得意だが、
”自分をゼロにして受け入れる”という前者のプロセスは、案外、苦手なのかも知れない。
 
 また、年齢や経験を重ねるほど、
”自分をゼロにする”ということがより難しくなっている、と感じる。
かなり強く意識しないと、できないことも多い。

 自分の理想やこれまでのルールがゼロになる瞬間、戸惑い、脅威にさえ思う、そんな怖がりな自分がいたのだな。
 
自分が思い込んできたものを、必要な時には、喜んでゼロにできる。
そんな、身も心もしなやかな人になりたいな、と思う。
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